夏の憂鬱
僕の日常の心象には、弱い鬱と強い躁が打ち寄せる波のように交互にやってくる。
躁が鬱に比べて強いからかあまり深く悩むことがなく、そのため普段どんなことで悩んでいるのか忘れがちなのだが、今回は備忘録として記録しておこうと思う。
こういう日記的なものは恥ずかしくて好きではないのだが、どうも今回の鬱は長期戦が予想されるようなので、もしかしたらその解消につながるのではという希望も込めて書かせていただく。
「他人を妬んではいけない」という言葉をよく耳にする。もはやそれが道徳体系の中に組み込まれてる気すらするほど、我々の心に深く刻まれているメッセージだと思う。「あなたの人生はあなたのもの」だから「他人を妬んでもどうしようもない」ということだ。確かに、それは正しい。いくら他人をうらやんでも自分はそうなることができないし、妬んで重たい気持ちを抱えたまま過ごすくらいなら自分もそうなってやろうというエネルギーに変えた方がいい。そうした方がより良い生をおくれるような気がする。だが、人間の、というか僕の人生はそう簡単には動かせない。
僕はどうも劣等感を抱きやすいタイプらしく、それゆえに他人の光る点を無意識のうちに探し出して、それが自分にないことを嘆く癖があるらしい。いわば、常に自己否定要素を他人のうちに見つけ出そうとしているのだ。
思い返してみれば僕の今までの人生の行動様式はすべて、他人に対する羨望から生まれた、あまり褒められた類のものではない感情を基にして作られているような気がする。別にそれが悪いってわけではないのだが、そんな負の感情ばかりからしかやる気を見いだせないのでは、本当に自分がやりたいことなんて、その中に隠れて見つからなくなってしまうだろう。誰に言われるでもなく好きになったものはもちろんいくつかある。おそらくそれらは一生ものの趣味になるだろう。でもそれ以外のものはどうか。劣等感から生まれた趣味であるがゆえに、その楽しさの中心点が見いだせずにいつの間にか忘れてしまったものがいくつもある。そうしてまた、次の自己否定要素を探して、できないことを嘆いての繰り返し。そのうち自分が本当にやりたいことがなんだかわからなくなってくる。
他人の中に見出す羨望、というのはどこまでも他人のものでしかない。そこから生まれる劣等感を解消するためには、それを自らのものにするしかない。しかしこれはジレンマを抱えている。他人のやっていることは、基本的に僕にはできないのだ。なぜなら自分にできるようなことはそもそも羨ましいとは思わないから。トートロジーに陥ってしまった。解決策は、ない。
また、羨望というのは承認欲求と密接にかかわっている。簡単にいってしまえば、他人がそれでもってみんなに羨望のまなざしを向けられているのが羨ましいのだ。それで僕も何かみんなから褒められるものが欲しいと思うようになる。そうしていろんなものに手を突っ込む。結局僕は承認欲求に突き動かされているというわけである。
なぜ僕は自分にできないことを、勝手に他人の中から見つけ出して、勝手に劣等感を抱くのだろう。この答えはつまり、劣等感と承認欲求の気色の悪い二重奏というわけだ。
ではなぜ、わざわざそんな演奏会を聴くはめになっているのか。この構造がさらに新たな構造を生み出しているからだろう。それは一種の錯覚ともいえる、が、それゆえに根の深い問題だ。というのも、どうやら僕は自分の人生に「きちんとした物語」を求めているのだ。
少し思い出話をさせてもらう。僕が高1の頃。僕は小学校の頃から歴史が好きであることをアイデンティティにしてきた。おそらく周りの人間もそうであることを僕の特徴の一つとして見ていた。しかし高校の頃の僕は な ぜ か 素粒子物理をやりたがっていた。自他ともに認める歴史好きで、何なら数学を一番の苦手科目としていた僕が、である。どうしてかと言えばそのちょっと前にテレビで見た数学者の岡潔にハマっていたからである。そこから理系に興味を持ち始めて多田将の『すごい実験』という本を読んで物理にハマったわけである。
さて、この話は外側から見ると一見よくあるストーリーだ。しかし私からするとこれはきれいなストーリーではない。なぜというに、最初の数学にハマったきっかけというのは「数学出来るようになってみんなに凄いと思われたい」という承認欲求がありありと存在し(しかし外側から見るとそれは隠れている)、同時に私には数学ができないという劣等感も存在している、という事実が私には分かっているからである。もし、理系科目が苦手で文系寄りな僕が急に物理をやりたいと言ったら周りはどう思うだろうか。「おそらく勘のいい人なら、僕の中の承認欲求をかぎつけるに違いない」と、当時の僕は考えたわけである。承認欲求は隠さなければならない。社会的に見たら、そんな理由で生きるのは恥だから(あるいは、別の物語を作るうえで障害になるから)。だから物理にハマるまでの美しいストーリーを求めるようになる。ちなみにこの時は親に「理系に進めばいいやん」と言われたことで、「親に勧められたから」という物語の材料を手に入れたので、ぼくはきれいなストーリーを仕立て上げて、理系に進むことができた。
これは僕が物語を欲した一つの事例であるが、僕は現在進行形でこのような物語を作り出さなきゃという強迫観念に取りつかれている。
僕はもはや、自分が本当に何をしたいのか分かっていない。つまり、「本心からやりたいこと」と「承認欲求からやりたいと思うようになったこと」の区別がつかないでいる。それゆえに僕の人生全体が虚構のような感じがしている。この虚構性を隠すために、僕は更なる物語を作り出さなきゃいけない。だから、自分の劣等感探しはやめられない。物語が書けないこと自体が承認欲求の存在証明になっているような気がして、更に物語を求めているともいえる。
四浪ともなると、もはや何かしらの物語がなくては「ただ京大に入って凄いと思われたいから」という承認欲求が勝手に見透かされてしまうのではないかという恐怖がある。僕はそうじゃないと信じているが、もう分からない。
まとめると、「僕の行動は僕の中に承認欲求によって動かされている。そして、自分の本当にやりたいことを隠しながら、自分のできないことを見つけてそれをしようとする。しかしそのことを他人に知られるのは嫌だ。なぜならそれは社会的に見れば恥だから。だから、その承認欲求を隠すための物語を必要としている。そして気づいたら物語を求めすぎて、今の自分が何者だかわからなくなってしまった。これが今の鬱の原因の一つになっている」。
さて、皆さんはどうでしょうか。私見では、現代人はみんなこの病に侵されていると思うのですが。この病的な思考をどうにかして直す方法はあるのでしょうか。
散歩の効用
昨晩は久しぶりに夜更かしをして334(Twitter上で午前3時34分ちょうどに”334”とつぶやき、その時刻の正確さを競う祭り)に参加してしまい、起きた時刻が12時過ぎでした。やはり朝起きるのが遅いとその日一日のやる気メーターの動きが悪くなってしまいます。一応今日までの社会学のレポートを書き終えるともうぐったりしてしまって、気分もどんどん下がっていってしまいました。17時くらいまで悶々と過ごしていたんですが、オープン前のこの時期に困難ではいけないと思い立ち、数か月ぶりの散歩を決行することにしました。
普段外に出歩かない僕ですが、昔からたまに散歩をするのが好きなんです。それも近所のなるべく知らないところを歩き回るのが好きで、実家にいたときもたまにランダムに知らない道へ進んでみるという探検をしていました。
普段外に出歩かないからか、近所でも意外と初めて見る光景というのが多いんです。歩くたびに新しい発見があってワクワクするんですよね。街の中でも店が多い場所や緑地になってる場所や大通りや狭い路地などたくさんあるんですけど、特に自分は団地とか住宅街(それも分譲のよく似た形の家がたくさん並んでるところ)が好きなんです。それと時間帯でいうと夕方の陽が落ちかけているときが良い。なぜかというと難しいけれど。
マンションや家の中ではそれぞれの家庭がそれぞれの生活を営んでいるわけです。それは自分がいままで育ってきた家庭とはもちろん違う。だからこそ自分とは違う生活を感じることができる住宅街が好きなんだと思います。なんとなく、友達の家にお邪魔しているときのワクワク感に近い。自分にもこういう生活がありえたかもなとかそういうことを考えながら歩いてます。
あと、団地の中とか住宅街を歩いてると夕飯のにおいなんかが漂ってくるわけですけど、そういうの中にいるとノスタルジーのようなものを感じるんです。「この家では子供たちが帰ってきてるのかな」とか「きっと勉強せずにゲームしてるんだろうな」とか考えるのが楽しいんですよね。
ノスタルジーつながりで散歩中のBGMはポケモンの街のBGMにしてます。そうすると急に昔の自分に戻った感じがして、「今自分は家に帰る途中なんじゃないかな」とかそういう感じがしてくる。
もしかしたら自分はずっと過去に縋り付いてるのかもしれませんね。
ただ、ノスタルジーに浸ってるだけというわけでもなくて、「将来こういう暮らしもありだなぁ」とか「こういうところに住みたいなぁ」みたいな想像もしてます。
散歩中の僕の頭の中には、過去への羨望と未来への希望が渦巻いているわけですね。これが脳にいい刺激となる。(と勝手に思っている)
さて、散歩のもともとの目的は気分を向上させることだったんですが、狙い通り微鬱状態からは脱することができまして、こうしてブログの筆を執ることもできたわけです。今日はどうせだからということで150円の缶コーヒー片手に散歩してたんですが、それも効果があったのかもしれません。
散歩をしようと思った契機の一つに、Z会の速単上級編の文章の中に「鬱の原因は単調な生活と行動パターンだ」みたいなのがあって、それを思い出したからなんですよね。まさか単語帳に載ってる文章に助けられるとは・・・。
というかブログ書くんだったら写真の一つで撮ってこればよかったですね。後悔。
たまにする散歩に気分をあげる効果があることを身をもって実証することができたので、これからもちょくちょくしていこうかな。
得点開示
京大入試の得点開示が届きました。
本当は5月だか6月だかに実家に届いていたんですが、そこから今の自分の住所まで再送してもらうのを忘れてて、みんなより2か月遅れくらいでしょうか。とりあえず見ていきましょう

ぱっと見だと共テ数学、二次英語でやらかしてる感じですね。国語は去年74点だったので非常に悔しい。力入れてた分ほかの科目よりも倍悔しいです。
文学部の最低点などはこちら
最低点約-15点。。。
決して僅差ではないんですが、去年80点差だったと考えると大きな進歩だと思います。自分に甘いので。
数学で六割取れていたのは意外でした。文学部に受かった友人は数学鬼低かったですし(英語で鬼高い点数採って見事挽回してました)、河合塾がやや難という評価だったので正直10点台を覚悟してましたが、ふたを開けてみれば国英より得点率が高いという文学部とは思えない点の取り方でした。
これで大差落ちだったらそのまま樹海に向かっていたかもしれませんが、今回は免れました。というか思ったより取れてたのでうれしいです。去年の努力がちゃんと努力として帰ってきたという感じ。
まぁ点数に関してはどうしようもできないので、来年に向けての対策を考えていくとします。まずは今回取れなかった共テ数学と二次英語を”少なくとも後れを取らない”くらいにはできるようにしたいです。
問題はここから
そんなに期待をしていたわけじゃないんですが、やっぱりやっとかなきゃないうことで京大志望者恒例の合否趣味レーションをしてみたところ、、、

いや、法学部なら受かっとったんかい!!!
これが一番うれしかったですね~。今まで京大から拒絶されてるとしか思えなかったので、学部は違えどちゃんと合格点をとれているというのは本当にうれしい。
法学部でやりたいことなんかこれぽっちもないので悔しいとかはないですが、とりあえず京大に入っても「京大の最底辺」としてやっていけるということがわかりました。
これで去年の清算が終わった感じがしますね!今年度の試験に向けて方向性も定まってきた感じがします!
京大OPと京大実戦にも申し込んだのでここでなるべくええ判定を出せるように頑張ります。
””いい”判定は出しません。”ええ”判定です。
それではまた。
そして三浪へ
全然記事を更新してませんでしたね・・・。
頭の片隅には更新しなきゃいけないなという焦りがあったのですが、久しぶりに会った中高の友達と話すことがないのと同様、いまさらなんて顔して書けばいいのかもわからず約一年の時が過ぎ去ってしまいました。
さて、この一年の間に起こった出来事をダイジェストでお話ししましょう。
前提として、現在三浪しています。
2浪目9月:夏模試が両方E判定でガン萎え。休学を決意
2浪目10月:秋模試で結構自信のある解答が書ける
2浪目11月:共テ対策を開始
2浪目12月:自信あった秋模試がE判定でガン萎え
2浪目1月:共テで自己ベスト
2浪2月:受験よりTwitterに勤しむ。万バズが止まらない。京大受験の折に吉田寮の乙コン(お疲れ様コンパ?)に参加。楽しすぎて落ちてももう一回やることを決意
2浪3月:落ちる。泣く。神戸大後期を受ける。これも落ちる。泣く。実家帰る。
3浪4月:気持ちを新たに勉強を始める
という感じでいろいろありましたが、すべて「落ちた」という一言で要約できます。
仮面浪人生は落ちると地獄を見ます。まさか自分がこの地獄を体験するとは1年前には考えられませんでした。久しぶりに会う同級生の視線が怖い。「なんでいるの?」と言わんばかりの目。+1するといった時の呆れ顔。いっそのこと早めに墓を建ててやろうかとも思いました。ただ、京大という魔力はなかなか私を逃してくれません。
受験の時の楽しい記憶、京大生に成れたら、、、という止まらない妄想。半分捨ててしまった仮面先大学での生活をやり直す気もさらさらなく、早々に三浪を決意しました。
三浪をするというのは一浪二浪とはわけが違います。捨てなければいけないものが増えてくるのです。具体的には新卒カードとか。
何かを捨てなければ何かを得られないのは世の常ですが、新卒カードと京大生活は等価なのか、多分死ぬ前の振り返りの時間にしか答えは出せないでしょう。
もし幼さゆえの甘い思考であることを許していただけるのなら、今の自分は「新卒カードを捨てた後悔より、京大に入らなかった公開の方が大きい」と考えているということはここに記しておきたい。
もともと自分は器用なタイプでもないし、多分就活も首尾よく行うことはできないだろうから、就活自体あまり重視していなかったという言い訳もあります。
親に三浪をねだるとき、絶対反対されるだろうなと思って極力内緒にしておこうと思ったんです。バイトして自分で稼いだお金でもって模試やら受験費やらを払おうと考えていました。しかしながらいくらバイトを受けても受からない。
不思議なことにどれだけシフト入れますアピールをしても受からないんです。顔採用でもしてるのかってくらい。
それでバイトはあきらめて、正直に親に話して三浪の許可をもらおうと決意したのが7月の初めのことでした。
しょっぱなから「ダメ」と言われる覚悟で電話してみたんですが、実際はそんなこともなく僕の話を聞いてくれました。「三浪するなら就ける職業は限られるし、そうなってもいいならやってもいい」と言っていただけたのには本当に感謝しかないです。親は偉大ですね。一生かけて孝行していきます。
そんなこんなで正式に三浪になることができました。
今年はちゃんとこまめに報告していければと思います。考えて文章書くのって結構記述式試験の練習にもなる気がするので。
現代文
京大において現代文は鬼門といえます。本来現代文は点数の取りにくい科目であり100点満点なら60点くらい取れたらいいなレベルなのですが、なぜか京大受験生の中には古文と合わせて150点満点中130点くらい取るやつが割といます。どういうからくりなのかわかりませんが凄い点数です。
自分も高校二年生までは現代文が得意であると自負していたのですが、いざ京大オープンを受けてみると4,50点しか取れておらず大変ショックを受けました。
去年河合塾にいたころはトップ現代文記述みたいな名前の授業で毎週添削課題があったのですがそこでも点数は一年通して上がりませんでした。
理由はいくつか考えられます。
①文章が読めていない
②解答要素に取りこぼしがある
③記述のルールに則っていない
等々...
おそらく全て当てはまってるんだと思います。
まず①について。文章を読むということはただ目で文を追うことではありません。それを頭で整理し、筆者の言いたいこと、根拠、を把握すること。これを意識的にしたことが今までなかったんです。びっくりですね。これが必要だと気付いたのは『現代文読解力の開発講座』を始めてから少しした時です。漠然と文章を読んで解った気になってはいけないということですね。
②について。これも自分の中ではあるあるでした。河合の授業では解答要素をまとめて教えてくれるのですが、良くて一、二個。一つも当てはまっていないなんてことがざらでした。思うに、これは読み方を知らなかったことに原因があると考えています。例えば具体例を解答に含めている、解答の中に筆者が譲歩のために入れた文章が入ってて主張が入っていない、など。
ここはしっかりとしたルールを学んでいなかったのが悪いですね。具体例は()に。解答は簡潔に。ちゃんとここら辺を意識していきたいと思います。
③について。記述のルールとはさっきのように具体例を入れているとか、抽象表現をそのまま使っているとか主述が不一致だとかそういうところです。
ここら辺を今になって学んでいます。幸運にもBOOK・OFFで中野師の『現代文読解の基礎講義』を手に入れることができたのでこれを使って客観的速読法、論理的読解法を学んでいます。
ですがここでも少し問題が起こっているんですよね。。。(続く)
期末テストと夏期講習
仮面先での前期の期末テストが終了しました。(バンザーーーーーイ!!!!!!!!!!!!!!!!)
正直単位がもらえるか怪しいところもあるのですがどうせ今年で去る(予定)の大学の単位なんかあってもなくても変わらんのです。
ただ万が一、いや億が一、来年もここにとどまることになった時のために最低限の単位は持っておこうとは思っています。特に必修を落とすと来年一年生と一緒に受ける羽目になってしまう。。。
テスト期間が終わると同時に夏期講習の期間が始まりました。ただほんとは少しかぶっていたんですけどねw
お茶の水三号館で雲k師の難関数学1a2bをとっていたのですが最終日に日本史概論と日程がかぶっていて、駿台が12:50までで日本史が1:20からだったんです。ぎりぎり間に合わなかったんですけど2分の遅刻は何とか認めてもらえましたw
このあと内野師の一橋国語が控えているので予習頑張ります。Twitter・・・あっ、今は「X」でしたね。Xの先に受講していたFFの方から内野師の講座について聞いてみたのですが、現代文に対する考え方が変わったと絶賛されていたので楽しみにしています^^
そのあとは名古屋に帰って京大オープンと京大実戦。冊子に乗れることはないかもしれませんが、載れるように頑張ります!
君たちはどう生きるか
火曜日に気分転換に映画館に行ってきました。池袋のでかいところです。
見に行くのはもちろんジブリの最新作「君たちはどう生きるか」です。タイトル的にも仮面浪人生にぴったりですね!
この時期の仮面浪人生のつらいところは夏期講習の予習と大学の期末試験がかぶってしまうところですよね。どうして大学側は僕の夏期講習の邪魔をしてくるのでしょうかね。。。ちょうど火曜日にドイツ語のテストが終わったのでちょっと休憩しようということで。ご褒美みたいなものです。
※注!以下ネタバレ含みます
ジブリの作品を映画館で最後に見たのは借りぐらしのアリエッティだったのでほとんど記憶ないんですよ。まず最初のトトロが描かれた青いスクリーンに「スタジオジブリ作品」と書かれた画面を見て少し感動しました。
内容は完全秘匿でしたし、公開後もツイッターのトレンドをアメリカのものにしたりして徹底的にネタバレを避けてきたので(主題歌が米津玄師であることは公式にバラされました)最初はハウルのような西洋風の街を舞台にしたファンタジーかと思ってたんですが、最初にサイレンが鳴り平屋が立ち並ぶ風景を見たときに良い意味で裏切られたなって思いました。なんというか前作風立ちぬに引っ張られたのかとも思いましたが、内容はたしかに冒険活劇ものでしたね。
あと冒頭の空襲の中を眞人が走り抜けるシーンは本当に圧倒されました。宮崎駿独特の走りとおそらく最新技術を駆使した映像のぼやかし方などあの映像は映画館でしか味わえないかもしれませんね。
内容としては大叔父さんが建てた不思議な塔をめぐる冒険なんだけど、どうやら大事そうに思われるキャラクターとセリフがたくさん登場するので頭がこんがらがってしまうのだと思います。
そこで個人的に気になった大叔父様について、
このキャラクターは世界を裏で支えている的なことをおしゃっていたのですが、なんか13個の積み木を並べて安定してるとかどうとか言っていたんですよね。13っていう数に心当たりがあって調べてみたらやっぱり「未来少年コナン」から「君たちはどう生きるか」までの宮崎作品の数が13個だったんですよ。それで「自分は道半ばで~」「跡を継いでほしいから~」と言っていたんですよ。これって要するにジブリの後継者を探してるってことなんじゃないかなーって素人ながらに思いました。仮に正しいとしたら、宮崎さんは今後のアニメ界を憂いているような気がします。。。
素人の戯言ですがね。
あとわらわらがとてもかわいかったです。久しぶりに純粋な「かわいい~」という感情が起こりました。なんか駿台の公式キャラの色付け前みたいなキャラですよねw
ただ、もののけ姫のコダマとかと比べると少し安直なキャラなのかな~なんて思ったりもしてしまいました。かわいいだけというかなんというか。ぶっちゃけそれだけで僕としては十分なんですけどね。グッズ化期待してます。でも両方ともとても似ていますよね。途中でデイダラボッチorペリカンに食われちゃうとか。
米津さんの曲も良かったですね!正直また米津かよって思ってましたが、やっぱ米津だよなってなりましたw映画館で聞いた時は「ふ~んこんな曲か~」っていう感想しかなかったですが後々spotifyでに三回聞いてみると「なにこれぇ~めっちゃええやんけ~!」ってなりました。
冒頭のバグパイプ・・・でしょうか?の音で一瞬平沢進のバンディリア旅行団を思い出しました。意識してるのかは知りませんが。
なんだか評価が拮抗していると耳にしましたが、個人的には大満足でした。もう一回くらい見たいです。
以上!勉強に戻りますね!皆さんも夏頑張りましょう!